山口県光市母子殺害事件に関して,医師で人間行動学者の藤田徳人氏が,「母子殺害事件、18歳少年は死刑か無期か?クイズ」(日刊フジタ情報)という記事を書いておられます。今回は,これを題材に,殺人罪における殺意の認定と,責任能力の欠如を理由とする処罰の否定に対する批判への反批判,裁判員制度の問題を考えてみたいと思います。
計画性がないから殺意がない?
まず第一に指摘したいのは,藤田氏が,計画性のない犯行であることを理由に,殺意が否定されるかのような下記ぶりをしている部分です。以下に引用します。
そして,計画的ではない,『とっさの犯行』,例えば激情犯と言われる場合にも,殺意は認定できるとされています。具体的には,使用された凶器,凶器の使用方法,創傷の程度・部位といった状況証拠から,犯行時の被告人の認識(していたであろう)事情を探り出し,それのみを基礎として考えた場合であっても,およそ『被害者の死』という結果の発生が避けられないのであれば,上記の意味での殺意を認めてよいと,私は考えます(この故意の理解は,いわゆる『動機説』に基づきますが,通説である『認容説』と,結果において変わるところはないと思います)。
さて,藤田氏は,「殺意」という言葉に計画性を求めるようですが,法学的に言えば,それは間違いということになります。そして,上述のように,計画性の欠如は,必ずしも殺意の認定を妨げません。
そればかりか,計画性が欠如する場合,特に激情犯と呼ばれる類型の場合には,被疑者・被告人の自白はあまり重視すべきではない,と言われています。古い版で恐縮ですが,「殺意」『刑事事実認定重要判決50選(上)』270頁,277頁を引用します。
「キチガイさん」を処罰する理由はあるのか
また,藤田氏は,常人では理解できないような思考をすること(藤田氏の言葉を借りれば,
しかし,2点,指摘しなければなりません。
先ず,藤田氏の思考順序は,法学的に言えば,思考が逆行していると言えます。責任能力の問題(心神喪失・心神耗弱)は,殺人罪における故意が肯定されたあとにでてくる話です。『その人は,殺意をもって,ある人を殺した』ということを前提に,そうした行為をするという意思決定をした,その動機づけについて責められるべき点がない場合,「責任がない」として犯罪は成立しない。これが,一般的な刑法学における思考順序です(無論,法学的な思考方法ができないヤツは,法律の問題に首を突っ込むな,などというつもりはありません。上記はあくまで,状況の確認として読んで下さい。念のため。)。
2点目として,これが最も重要な指摘ですが,『責任無能力とされた者に処罰を加える目的は何か』,です。藤田氏は,この点をどのように考えておられるのでしょうか。
私は,藤田氏の見解は,『とにかく悪いことをしたからには処罰されなければならない』という,典型的な絶対的応報刑論に位置づけられるのではないか,と思います。法学的見地からではなく,一般常識としての絶対的応報刑論が唱えられる背景には,素朴な正義感があるのではないか,と考えています。それ自体は悪いことではなく,むしろ善いことだと思うのですが,応報刑論(特に絶対的応報刑論)については種々の批判があり,これを現代において採用することは非常に難しいといえます(絶対的応報刑論に対する私の批判は,以前のエントリを参照して下さい。)。
裁判員は死人の「くち」になれるのか。
藤田氏の論考は,裁判制度への批判に至ります。
以下は,私が,『無責任にも,事実がよく分からないのに,コメントしている』ということを前提に,お読みください。
おそらく,藤田氏は,被告人の主張が直接に届く一方,被害者の主張は原理的に不可能であり,かつ,それに代替する手段も設けられてこなかった(あるいは,裁判官が被害者側の事情を十分に汲み取ってこなかった)と考えておられるのでしょう。
しかし,第一に指摘しておかなければならないことは,犯罪の成否を判断する場面はもちろんのこと,量刑を判断する際にも,被害者側の事情は十分考慮されなければならないのは,法学の世界でも常識である,ということです。
特に量刑の判断は,(その是非はともかく)あらゆる事情が考慮されます。そこでは,被害者の処罰感情や,落ち度の有無も,当然に考慮されます。最高裁も,特に『遺族の被害感情』が死刑とすべきか否かを決する際の一要素となるべきことを明言しており,これは光市母子殺害事件における最高裁判決でも確認されています。
つまり,藤田氏がいうような意味での
第二に,裁判員を死人(被害者)の
形式的には,先ず,裁判員は,当事者双方に対して公平でなければなりません(裁判員法9条1項)。更に,被害者自身や,被害者の親族・同居人は,その事件について裁判員になることができません(裁判員法17条)。
上記のことは,たとえ裁判員法にこのような規定がなかったとしても,公平で,実体的真実をよりよく解明することができる刑事裁判を実現するためには,必要とされる要素でしょう。裁判員が被害者に肩入れするならば,被告人に有利な証拠を意図的に無視することすら考えられるからです。
以上述べてきたところからすれば,藤田氏の論考は,刑事法と刑事裁判に対する多くの誤解に基づくものであって,不正確なものと言えましょう。
揚げ足取り──反社会性の「自白」?
以下は,いわば『揚げ足取り』であって,あまり実のある議論ではありませんが,書き留めておきます。そのつもりでお読みください。
藤田氏は,以下のように述べます。
それだけでなく,藤田氏は,更に後の部分で,完全に矛盾するようなことを述べています。
死刑制度廃止論者は
それにしても,「脳化学」では,対象を直接に観察することなく「性格の類似」を断定できるのでしょうか。もっとも,多分に推測で書いてしまった今回の私のエントリも,似たようなものなのかも知れません。
計画性がないから殺意がない?
まず第一に指摘したいのは,藤田氏が,計画性のない犯行であることを理由に,殺意が否定されるかのような下記ぶりをしている部分です。以下に引用します。
残念ながら衝動的で計画性は認めにくい。そして理性のかけらもない彼の犯行は、まさにキチガイそのもの。単に自分の性欲と征服欲を満たすためだけに、母子を殺害できる脳の構造は、ブリトニー・スピアーズなみにおかしい。おかしいからこそ、やはり計画的な殺意はなかったというのが真実である。
まさに、発作のようにして自分が世界の王になってしまったわけだ。普通ではありえない。だから普通ではない。だから殺意を認定できない。私はこれが正解だと思う。しかしながら,周知の通り,計画性のない殺人でも,殺人罪は成立します。「殺意」,つまり,殺人罪における故意は,殺害行為と殺害結果(被害者の死)の認識・認容です(通説)。
そして,計画的ではない,『とっさの犯行』,例えば激情犯と言われる場合にも,殺意は認定できるとされています。具体的には,使用された凶器,凶器の使用方法,創傷の程度・部位といった状況証拠から,犯行時の被告人の認識(していたであろう)事情を探り出し,それのみを基礎として考えた場合であっても,およそ『被害者の死』という結果の発生が避けられないのであれば,上記の意味での殺意を認めてよいと,私は考えます(この故意の理解は,いわゆる『動機説』に基づきますが,通説である『認容説』と,結果において変わるところはないと思います)。
さて,藤田氏は,「殺意」という言葉に計画性を求めるようですが,法学的に言えば,それは間違いということになります。そして,上述のように,計画性の欠如は,必ずしも殺意の認定を妨げません。
そればかりか,計画性が欠如する場合,特に激情犯と呼ばれる類型の場合には,被疑者・被告人の自白はあまり重視すべきではない,と言われています。古い版で恐縮ですが,「殺意」『刑事事実認定重要判決50選(上)』270頁,277頁を引用します。
激情犯(故殺)の場合には、突然異常な出来事に直面するのであるから、被告人が犯行時の心理状態を正確に把握し、表現することは困難であると思われる。被告人が、殺意があった、あるいは、なかったと供述したからといって、それを殺意を認定する上での決定的な証拠とすべきではない。
激情犯(故殺)については、犯行自体、すなわち、凶器の種類・用法、創傷の部位・程度といった状況証拠が重要であって、動機を重視することは相当でない。行為態様等に照らせば、合理的な動機が見当たらないからといって、殺意を否定することは相当でないという場合もある。これを藤田氏がコメントしている山口光市母子殺害事件(概要については,さしあたり,wikipediaの記事)に沿って考えると,被告人の供述通り,
手足をばたつかせていたのを押さえようとしたら(プロレスの技の)スリーパーホールドの形になった,
無我夢中でいたら、動かなくなった。『なんてことをしてしまったんだろう』と呆然(ぼうぜん)としたということが真実であるならば(参照),警部を強力に圧迫していたことの認識がある限り,十分に殺意を認定する余地はあると言えましょう。
「キチガイさん」を処罰する理由はあるのか
また,藤田氏は,常人では理解できないような思考をすること(藤田氏の言葉を借りれば,
キチガイさんであること)を理由に,殺意が否定されると考えているようです。更に,上記引用部分に続けて,以下のように述べています。
では、なにが間違っているのか? 精神異常で起こした犯罪は、罪が問われないとしている日本の法律が間違っているということになる。キチガイさんも罰さなくてはいけないというのが根本的な問題だ。つまり、日本の法律が悪いのだ。キチガイさんを救済する法が悪いわけで、こちらをぶっつぶすしかない。みなさんの怒りはこの1点にぶつけてほしい。おそらく,精神異常=責任能力の欠如=刑法39条の適用,というように考えておられるのだろうと思います(この論理それ自体もかなり粗雑ではないかと思うのですが,その点は捨て置きます)。
しかし,2点,指摘しなければなりません。
先ず,藤田氏の思考順序は,法学的に言えば,思考が逆行していると言えます。責任能力の問題(心神喪失・心神耗弱)は,殺人罪における故意が肯定されたあとにでてくる話です。『その人は,殺意をもって,ある人を殺した』ということを前提に,そうした行為をするという意思決定をした,その動機づけについて責められるべき点がない場合,「責任がない」として犯罪は成立しない。これが,一般的な刑法学における思考順序です(無論,法学的な思考方法ができないヤツは,法律の問題に首を突っ込むな,などというつもりはありません。上記はあくまで,状況の確認として読んで下さい。念のため。)。
2点目として,これが最も重要な指摘ですが,『責任無能力とされた者に処罰を加える目的は何か』,です。藤田氏は,この点をどのように考えておられるのでしょうか。
精神異常のある者の回復を目的とするならば,それは刑罰以外の方法でも可能であり,むしろそちらの方が適切であると思います。
私は,藤田氏の見解は,『とにかく悪いことをしたからには処罰されなければならない』という,典型的な絶対的応報刑論に位置づけられるのではないか,と思います。法学的見地からではなく,一般常識としての絶対的応報刑論が唱えられる背景には,素朴な正義感があるのではないか,と考えています。それ自体は悪いことではなく,むしろ善いことだと思うのですが,応報刑論(特に絶対的応報刑論)については種々の批判があり,これを現代において採用することは非常に難しいといえます(絶対的応報刑論に対する私の批判は,以前のエントリを参照して下さい。)。
裁判員は死人の「くち」になれるのか。
藤田氏の論考は,裁判制度への批判に至ります。
さて、日本の法律は「死人にくちなし」である。殺された場合、被害者は容疑者を訴えることができない。だから加害者の都合で罪が決められてしまうのだ。これは前に述べた「淫行条例」とは間逆。淫行条例は加害者の事情は一切無視される。被害者の証言のみで罪が決まる。だからこれが欠陥の法律だと私は述べた。
同様に、殺人罪の場合は被害者の都合が全て無視される。加害者の殺意のみで罪が決まる。だから日本の殺人に対する法律も欠陥なのだ。そこで、陪審員制度がとられるのだ。死人に口なし状態を死人に口あり状態にするためだ。陪審員に死人の悔しさを代弁させるわけだ。おそらく,犯罪の成否ではなく,量刑の問題を論じているのだろうと思いますが,
被害者の都合
加害者の都合という場合の
都合とはどのような意味なのか,そこがよく分かりません。
以下は,私が,『無責任にも,事実がよく分からないのに,コメントしている』ということを前提に,お読みください。
おそらく,藤田氏は,被告人の主張が直接に届く一方,被害者の主張は原理的に不可能であり,かつ,それに代替する手段も設けられてこなかった(あるいは,裁判官が被害者側の事情を十分に汲み取ってこなかった)と考えておられるのでしょう。
しかし,第一に指摘しておかなければならないことは,犯罪の成否を判断する場面はもちろんのこと,量刑を判断する際にも,被害者側の事情は十分考慮されなければならないのは,法学の世界でも常識である,ということです。
特に量刑の判断は,(その是非はともかく)あらゆる事情が考慮されます。そこでは,被害者の処罰感情や,落ち度の有無も,当然に考慮されます。最高裁も,特に『遺族の被害感情』が死刑とすべきか否かを決する際の一要素となるべきことを明言しており,これは光市母子殺害事件における最高裁判決でも確認されています。
つまり,藤田氏がいうような意味での
死人にくちなしという状態にはない(藤田氏の刑事裁判に対する認識が誤っている)と言ってよいように思います。
第二に,裁判員を死人(被害者)の
くち(代弁者)と捉える点に疑問を感じます(藤田氏は
そこで,陪審員制度がとられるのだと述べていますが,現在の日本には実際に運用されている陪審制度はないため,裁判員制度を念頭においた記述と考えます)。
形式的には,先ず,裁判員は,当事者双方に対して公平でなければなりません(裁判員法9条1項)。更に,被害者自身や,被害者の親族・同居人は,その事件について裁判員になることができません(裁判員法17条)。
上記のことは,たとえ裁判員法にこのような規定がなかったとしても,公平で,実体的真実をよりよく解明することができる刑事裁判を実現するためには,必要とされる要素でしょう。裁判員が被害者に肩入れするならば,被告人に有利な証拠を意図的に無視することすら考えられるからです。
以上述べてきたところからすれば,藤田氏の論考は,刑事法と刑事裁判に対する多くの誤解に基づくものであって,不正確なものと言えましょう。
揚げ足取り──反社会性の「自白」?
以下は,いわば『揚げ足取り』であって,あまり実のある議論ではありませんが,書き留めておきます。そのつもりでお読みください。
藤田氏は,以下のように述べます。
ここまで国民の人権を愚弄するような、そして被害者の感情をさかなでできるような非常識な作文をする弁護士もまた、反社会性のかたまりである。現在、日本では死刑が認められており、そういう日本の法体制を崩そうとする左派と考えていい。つまり、少年を弁護する彼らもまた、少年と同じような性格の持ち主と言える。反社会性の塊だ。
日本の法制度をくつがえすなどという考えを持つ人たちの集団であるから、法の番人どころか、法のデストロイヤー的な方々である。こんな作文をしても不思議ではない。しかし、脳科学的に見て、少年の性格と弁護人の性格は類似していると言えよう。問題とされている主張は,被告人の弁護活動として行われているという決定的な要素を見落としているため,この主張は全く説得力を欠きます(なお,今回の事件において,弁護団は,死刑制度そのものについての攻撃はしていないことを付言しておきます)。
それだけでなく,藤田氏は,更に後の部分で,完全に矛盾するようなことを述べています。
同様に、殺人罪の場合は被害者の都合が全て無視される。加害者の殺意のみで罪が決まる。だから日本の殺人に対する法律も欠陥なのだ。そこで、陪審員制度がとられるのだ。死人に口なし状態を死人に口あり状態にするためだ。陪審員に死人の悔しさを代弁させるわけだ。仮に犯罪被害者の「悔しさ」を代弁させることが必要・妥当だとして,その方法が陪審制以外あり得ない,というものではありませんし,そもそもの出発点(弁護団の主張への怒り)からすれば,藤田氏が
とにかく、日本の法律は欠陥だらけである。そして、国民が怒っている。今回の、このバカバカしい作文に腹が立つなら、みなさんが日本の法を批判するムーブメントを起こして欲しい。私にはそれくらいのことしか言えない。
非常識と断じた主張を封じる方策が呈示されなければならないはずの文脈なのですが,それはなされていません。
死刑制度廃止論者は
日本の法制度をくつがえすなどという考えを持つ人たちの集団であるから、法の番人どころか、法のデストロイヤー的な方々であるとする一方,
とにかく、日本の法律は欠陥だらけである。そして、国民が怒っている。今回の、このバカバカしい作文に腹が立つなら、みなさんが日本の法を批判するムーブメントを起こして欲しい。と述べている意味は,なんなのでしょうか。この
ムーブメントが法改正の意味であれば,死刑制度を廃止すること(具体的には,法改正により実現されましょう)を破壊であるという以上,自らも
法のデストロイヤー的人々に属するという告白なのでしょうか。あるいは,単に矛盾に気がついていないだけなのでしょうか。よく分かりません。よく分かりませんが,支持はできません。
それにしても,「脳化学」では,対象を直接に観察することなく「性格の類似」を断定できるのでしょうか。もっとも,多分に推測で書いてしまった今回の私のエントリも,似たようなものなのかも知れません。
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2007.08.15 13:47 | 社会のレス
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